秦さん特別インタビューレポート

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特別インタビュー パラトライアスロン 秦 由加子さん

 2016年にブラジルで開催されたリオ2016パラリンピック。パラトライアスロンの日本代表として出場したのが秦由加子さんでした。秦さんはマーズフラッグ(IT企業)と稲毛インター(稲毛インターナショナルスイミングスクール)に所属するパラアスリートですが、普段はJISA会員企業のキヤノンマーケティングジャパンに勤められています。

 JISA会員企業に、世界で活躍するパラリンピアンがいるのです。そして、東京2020パラリンピックも目指されている秦さんを、協会を挙げて応援したい。そんな思いをご本人にお伝えし、快くインタビューのお時間を頂戴しました。また、写真撮影もご了解頂きましたので、Canonデジタル一眼レフカメラEOSシリーズの最新機種で撮らせて頂きました。

パラトライアスロンとは、こんな競技です

 パラトライアスロンはスイム0.75km、バイク20.0km、ラン5.0kmで競う競技です。健常者が行うトライアスロンも同じですが、会場や天候等によってコンディションが異なりますので、競技はタイムではなく順位を競います。

 パラトライアスロンは、シッティング(座位)、スタンディング(立位)、ブラインド(視覚障がい)など、障がいの種類や程度に応じて6種類のクラスに分けられています。

 私が出場するクラスは、スタンディングの中で最も重い障がいに位置付けられているPTS2です。PTS2は膝上切断などの重度下肢障がいのクラスで、障がいが大腿か下腿かでクラスが異なるのです。

 

 言葉だけでは伝わりにくいので、レースの迫力を是非、実際に目の前で見て欲しいですね。パラトライアスロンは比較的コンパクトな範囲の周回コースで行われますので、一カ所で三種目の全てを観ることができます。

 今年は、5月12日、13日に横浜でワールドトライアスロンシリーズが開催され、誰でも観戦することが出来ます。氷川丸周辺を泳ぎ、赤レンガ倉庫街をバイクで走り、最後に山下公園の周回コースを走ります。お店も出店され、お祭りのように楽しめますので、是非、多くの人に観戦に来て欲しいです。 

きっかけは社会人になってから水泳を再開したこと

 私は、小学校3年生まで水泳をやっていましたが、中学一年生の時に右足を失ってからはスポーツを全くやっておらず、普通に大学を卒業してOLになりました。小さいころから千葉で育ち、千葉が大好きだったので、地元にオフィスがあるキヤノンマーケティングジャパンに入社したのです。そして、社会人になって数年が経った頃、時間に余裕が出来たので、仕事以外に何かを始めようと思い、子供の頃好きだった水泳を始めることにしたのです。

 現在も所属している稲毛インターで水泳を習うようになったのですが、そこにトライアスロンコースがありました。そのトライアスロンコースには、リオ2016オリンピックにも出場したトライアスリートの上田藍さんや松田友里恵さんも所属しており、そこでトライアスロンにチャレンジすることを勧められたのです。

 私は、ロンドン2012パラリンピックまでは競泳選手としてパラリンピックを目指していましたが、残念ながら出場は叶いませんでした。そんな時、リオ2016パラリンピックからパラトライアスロンがパラリンピック競技に決定したことを知り、以前からお誘いを受けていたトライアスロンへのチャレンジを決意したのです。

 今でもそうなのですが、当時、日本には大腿切断の女子パラトライアスリートはいませんでした。一方、男子には松葉杖で走るパラトライアスリートがいらっしゃったので、義足でトライアスロンが出来るのか相談をしたところ、「日本では前例がないけど、海外にはいるから出来ると思う」と言われて背中を押されました。また、米国女子パラトライアスリートのサラ・レイナートセン選手をインターネットで拝見し、彼女の格好良さに惹かれて、自分も彼女のようになりたいと思った事も大きかったです。 

実際に始めてみたら、義足のパラトライアスロンは、やっぱりきつかった

 社会人になって水泳を再開してから2008年までは水泳しかやっていませんでしたし、走ることには自信がなかったので、本当に義足で走ることが出来るのか不安でした。そして、その不安は的中。最初のうちは、義足で上手く走れず、足も痛くなり、義足を外すと足が血だらけになっていました。

 私のように大腿切断用の義足には、基本的に膝の役割を果たす膝継手が付いていて、膝下が後ろに曲がるようになっています。そして、膝下が伸びた状態で力を掛けないと、意図せず膝下部分が曲がってしまい、転んでしまうのです。

 義足での長距離走は国内では前例がないため、義足メーカーさんと試行錯誤をしながら、最終的には膝継手の無い義足を使うことにしたのです。長距離を走るには、やはり膝継手の重量は負担が大きいですからね。一方、継手のない義足を扱うためには、それを操るだけの筋力が必要なります。また、フォームも変えなければなりません。継手が無いと言うことは、膝を曲げることが出来ないため、まっすぐ足を出していたら地面を擦ってしまいます。なので、義足を横から回すフォームにする必要があり、その分、普通に走る場合とは違う筋力が必要なのです。 

多くの方に支えられて今がある

 そんなトライアスリート仲間に、IT企業のマーズフラッグ社の方がいらっしゃいました。そして、私がパラトライアスロンにチャレンジするに当たって、マーズフラッグ社から支援頂くことになったのです。本当にありがたい事です。


 ©Satoshi TAKASAKI/(公社)日本トライアスロン連合(JTU)

 また、勤務しているキヤノンマーケティングジャパンでも、勤務の面で支援頂いています。リオ2016パラリンピックの出場が決まると、合宿等で不在にすることも多かったのですが、休暇の面で特別な支援をして頂きました。キヤノンの会長であられる御手洗さんからも「応援している」とおっしゃって頂き、安心して仕事とパラリンピックの両立が出来ました。今週末、3月2日から3月30日までタイでの合宿があるのですが、それにも参加することが出来ます。こうして、多くの方に支えて頂きながら、東京2020パラリンピックに向けて頑張っています。 

13歳の時、足に痛みを感じて医者に行ったら、20日後に右足を切断することに

 あれは、13歳の中学1年生の時でした。右足に痛みを感じ、母に相談して、すぐに医者に行きました。結果的には、それがラッキーでした。中学生だったら、少々足が痛くても、普通は医者には行かないですよね。でも、それまで運動をして足が痛くなる経験が無かった私は、何か違和感を抱き、母に相談して医者に行ったのです。

 最初は大部屋に入院したのですが、ある日、個室に移され、両親も呼ばれて告知されました。骨肉腫という病気で、若年時は転移が速いので、一刻も早く切断した方が良いと。両親はその場で泣き崩れました。「元気な体に産んであげられなくてごめんね」と泣きながら謝られました。そんな両親を見て私は覚悟を決めました。「大丈夫だよ。私、足を切るから。足を1本切るだけだから大丈夫だよって」って。私の場合は、右足のすねに骨肉腫ができたので、部分的に骨を削って人口骨で埋める手段もありました。そうすれば、足を失うことはない。でも、当時の医療では転移のリスクが否定出来なかった。部分的な治療にするか、足を切るか、その判断を家族に求められていたら、あの時点では、恐らく足を残す選択をしたと思います。実際は、その判断を家族には求められず、担当して下さった先生は、「私は切断した方が良いと思います」とはっきり言ってくれたのです。だから私は切ることを決断。ちょっと足が痛いと思って医者に行ったわずか20日後でした。結果的に、切断することを選択したからこそ、病気を克服し、今の私がいるのだと思っています。 

楽しく水泳が出来ることが分かった時、コンプレックスを乗り越えられた

 退院後、一年半は抗がん剤を投与しながら、入退院を繰り返し、学校に通っていましたが、その後は通院もなくなり、義足で通常の生活に戻れました。まだ中学1年生だったこともあり、足を切断したことに対して、私はあまり悲観的にはなりませんでした。なるようになるだろうと思っていました。

 それでも、思春期ということもあって、私は義足にコンプレックスを持っていました。制服のスカートをはくのも嫌でした。外装付きの義足を着けて生活をしていましたが、歩き方がぎこちないので、皆が私の足元を見ているのではないか、義足であることがばれているのではないか、そんな事が気になって仕方がありませんでした。

 社会人になって数年後に再び水泳を始めた時も、最初のうちは全く楽しくなかったです。周りの人がみんな、私の足を見ているような気がしました。周りの人が少なくなったところで、素早くバスタオルを外して泳ぎましたが、それでも他人の目が気になります。

 こんなことでは、楽しいはずの水泳も、全然楽しくない。そんな時、仲間を見つけようと思って、インターネットで「障がい者 水泳 千葉」と検索して、千葉ミラクルズという障がい者の水泳チームを見つけ、仲間に入れてもらいました。その出会いが、再び水泳の楽しさを思い出させてくれたのです。障がいを持っていても、楽しく水泳が出来る。そのことが分かった時、私は変われました。それまでは、コンプレックスしか持っていなかった私でしたが、いつかは自分を変えないといけない、片足がなくても、義足でも、堂々と生きていかなければ駄目だと思っていました。そして、そのきっかけを千葉ミラクルズがくれたのです。 

これからは義足が当たり前の社会にしたい

 街を歩いていて、義足の人を見掛けることは殆どないですよね。でも、本当は沢山いるはずです。義足で生活している私から見ると、義足で歩いている人は何となく分かりますが、皆さん隠して歩いています。何故、隠すのか。それは、日本では義足が当たり前ではないからだと思います。義足の人を初めて見ると少し驚くと思いますが、二度目からは普通になりますよね。だから、義足が当たり前の社会になればいい。そう思う様になり、それ以来、私は義足を隠さないようになりました。外装も外して、骨組みだけの義足で生活をするようになり、私自身すごく前向きになったのです。夏場は、骨組みだけの義足を着けて、短パンやスカートで外へ出掛けています。


 ©Satoshi TAKASAKI/(公社)日本トライアスロン連合(JTU) 

海外では、みんなが障がい者とつながる環境が出来ている、日本もそうなって欲しい

 米国に合宿等で行くことがありますが、向こうに行くと、日本と違って、みんなが障がい者とつながる環境が出来ていると感じます。

 これは、子供の頃からの教育が関係しているような気がします。私が大学生時代に米国に留学した時の事でした。義足で歩いている私に、現地の子供が近づいてきて私の義足を不思議そうに見ていたのです。そこに親がやって来て言ったのです。「クールだね。恰好いいね」と。そして、「この人は、こんな病気で足を失って、格好いい義足を着けて生活をしているのよ。困っている時は助けて上げなさい」と子供に教えていたのです。残念ながら、日本で同じシチュエーションになると、親御さんが「ごめんなさいね」と言って子供を引き離そうとすることがあります。「ごめんなさいね」と言わせる私は何なのだろうと落ち込みますよね。日本も海外のように、自然な形でお互いを認め合えるような、インクルーシブな社会になってほしいですね。

 知り合いに障がい者がいるか否で大きく違うと思います。身近な知り合いに障がい者がいたら、何をする必要があって、何をする必要がないか、それが分かると思います。そして、それが自然に出来、お互いが無理なく自然体で過ごせて初めてインクルーシブな関係が出来るのだと思います。だから、障がい者か健常者かに関係なく、もっとつながり合って、お互いを普通の存在にして欲しい。その為に、私も私に出来ることをします。このインタビューもその一つです。 

リオパラリンピックのゴールラインを超えた時、障がい者で良かったと思った
そして2020年に向けて新たな決意を 

 ロンドン2012パラリンピックの出場は叶いませんでしたが、2013年にパラトライアスロンに転向してリオ2016パラリンピック出場の夢が実現出来ました。しかし、まだ世界のパラリンピアンには到底かないませんでした。結果は8人中の6位。特に米国は強いです。米国では競技者をサポートする環境も整っていると思います。例えば、CAF(Challenge Athletes Foundation)という組織があり、障がい者がエントリーをすれば、パラスポーツをするために必要な道具やトレーニングの機会などが無償で提供されるのです。私も、一度、CAFにエントリーしたことがありますが、本当に助かりました。


 ©Satoshi TAKASAKI/(公社)日本トライアスロン連合(JTU)

 私は、リオ2016パラリンピックに出場出来るだけで夢が叶ったと思っていました。でも、フィニッシュラインを超えた時、想像を遥かに超える感動を覚えました。「地球で一番大きな大会でゴールが出来た。障がい者で良かった」と心の底から思ったのです。そして、そんな私を支えてくれ、応援してくれた全ての人々への感謝が込み上げてきました。パラトライアスロンを始めて3年でここまで来られたのだから、あと4年努力し、もっと違う景色を見たい。フィニッシュの瞬間に、そう思ったのです。

 そして、東京2020パラリンピックにチャレンジすることを決意しました。唯一の不安は、2020東京大会のパラトライアスロンでは4つのクラスしか正式種目にならないことが決まっていることです。私が出場するPTS2が対象になるか否かは現時点では定かではないのです。何とか、対象になってくれることを祈りながら、今週末から一か月間の合宿に行ってきます。

 <編集後記>

 合宿直前のご多忙の中、貴重なお時間を頂きました。アスリートとしても、一人の女性としても、非常に魅力的な方でした。インタビューの間、「ラッキーでした」という言葉が端々に聞かれ、秦さんの前向きな姿勢と思考を肌で感じました。日本をインクルーシブな社会に変えて行きたいという秦さんの思いと、それに向けた行動を、私たちも見習うべきだと強く感じるインタビューでした。

 骨組みだけの義足を露にする秦さんの写真がインターネット上でも沢山公開されています。「義足が当たり前の社会にしたい」という秦さんの思いの表れだと感じました。障がい者と健常者がもっともっと自然体で触れ合える社会にすべく、多くの機会をJPSSCでも作っていきたいと思っています。

 秦さんは、私たちと同じ情報サービス産業界に勤務するパラリンピアンです。東京2020パラリンピックの正式種目に選ばれることを祈りつつ、正式種目になった時は、協会を挙げて秦さんを応援したいと思います。

 ご多忙中、貴重なお時間を頂いた秦由加子さんに心からお礼を申し上げるとともに、インタビューをご了解頂いた稲毛インターの山根様、キヤノンマーケティングジャパン・広報部の方々に感謝申し上げます。

 

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