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2020.3.18

イントロダクション 平成元年という時代/1989年-1995年「SI」とは何だったのか

イントロダクション 平成元年という時代/1989年-1995年「SI」とは何だったのか

ベテランと若手の業界人が「平成の30年=SIの30年」を振り返ることで、SIerとしての自らの立ち位置や発想・行動パターンの特徴を再確認し、「令和=DXの時代」にいかに向きあうべきか、そのためには何をすべきかを考察する。

対談者 ~若手ベテラン~

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昭和50年、日本国有鉄道入社。
昭和59年、(株)SRA入社。
平成2年SRAAMERICA,INC.代表取締役社長。
平成3年SRA(Europe )B.V.代表取締役社長。
平成15年、同社代表取締役社長。

I001-6.JPG総合電機メーカーセールスエンジニアを経て、
1986年に(株)オージス総研に入社。
コンサルティング部長、ソフトウェア工学
センター(現アジャイル開発センター)長を経て、
2014年3月まで取締役執行役員技術部長。
2014年4月、(株)ロックオン入社。2015年10月、
同社執行役員商流プラットフォーム事業本部長。
2016年10月より現職。

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2009年、(株)NTTデータ入社。オープンソースを
軸とした方式技術部隊でHadoopやSparkの
導入支援や技術開発,テクニカルサポートに
従事するほか,Hadoop/Sparkのコミュニティに
参画し開発活動も行っている。
2015年6月からApache Sparkのコミッタとして活動中。
第10回日本OSS奨励賞受賞。

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1985年、日本電信電話(株)(NTT)入社。
株式会社NTTデータにて、システムエンジニア、
プロジェクトマネージャーを経験。
現職にて情報戦略立案や情報システム企画、
デジタルビジネス企画に関連する
コンサルティングを実施中。
武蔵野大学国際総合研究所客員教授。博士(経営学)。


平成元年から語る 

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自己紹介

この業界に入った動機や平成元年に何をやっていたかを交えての自己紹介

I001-1.jpg三谷
司会の三谷です。私からお話ししますと、業界に入った理由は、純粋にプログラミングがおもしろかったからです。元々の専門は土木建築だったのですが、図面を描いた瞬間に自分の才能のなさがわかってしまって。(笑)センスがある人は、線を引いただけで、「すごい!」とわかるのです。一方、プログラミングはある程度の文法を覚えてしまえば、自分の頭で思いついたことがセンスの有無に関わらずあっという間に実現できてしまう。これがとてもおもしろかった。平成元年は20代で金融機関の3次オンラインのプロマネのようなことをやっていたと思います。では宗平さんから自己紹介をお願いします。
I001-4.jpg宗平
大学のとき気象学でFortranを組んでいたんです。今では「Fortranって何?」と言われるんですけれど。(笑)

一同:大丈夫ですよ! わかります笑

I001-4.jpg宗平
大学院を中退後、メーカーに入社し、営業で汎用機を売っていました。その頃はシステムサーベイといって営業も提案書をしっかり自分で書いていたので、それからエンジニアをやりたいと思い、オージス総研に転職し、この業界に入りました。平成元年はオージス総研で地域情報化や行政情報化に携わっていて、SIerに対してRFPを書いていました。最初は公共系で、途中からは民間系をやっていました。
I001-3.jpg鹿島
平成元年は37歳でした。ニューヨークで子会社を作らせてもらった頃です。日本の自動車会社が85年頃から、アメリカにたくさんトランスプラント(生産工場)を作り始めていて、その工場のシステムを我々が受注し、その開発責任者としてその当時は頑張っていました。業界に入った理由ですが、私は元は法学部で国鉄出身なんです。国鉄は不思議なことに何人か留学させちゃうんですよ。それでミシガン大学で計量経済学をやらされて、生まれて初めてコンピュータをいじって「すごい! 俺にはこんな計算はできない!」と思い、コンピュータの魅力に惹かれました。国鉄には、零戦と同じ速さで走るといわれていたリニアモーターカーを作りたいという夢を持って入ったんですが、団体交渉ばかりさせられました。
I001-1.jpg三谷
法学部だとそっち側をやらされるんですね。
I001-2.jpg猿田
私は実はSI業界に入りたくてNTTデータに入ったわけではなくて、私が就職活動しているときに、オープンソースの世界で活躍しているエンジニアがたくさんいたことや、オープンソースのテクノロジーが公開されているということ自体に非常に魅力を感じていたことがきっかけです。
I001-1.jpg三谷
Unix、Linuxどちらですか?
I001-2.jpg猿田
Linuxです。元々コンピュータに興味を持ったのは、小学生のときです。小学校にはコンピュータルームがあり、普段は鍵がかかっていてたまに入れてもらうと、何か特別な空間に思えたんです。それで将来はコンピュータを使った仕事がしたいと思って、コンピュータサイエンスを修めました。大学ではロシア人の教授が英語でプログラミングを教えるので、何を言っているのか全然わからないんです。そんな環境で勉強したら、周りよりコードを書くのが得意になっていて、同じ頃オープンソースという世界に飛び込んでいって、将来オープンソースをベースにご飯を食べていきたいと思いました。NTTデータはその当時オープンソースで活躍している人たちがいたので入社を決めました。今まさにオープンソースをベースにしたプラットフォームエンジニアとして働かせていただいています。平成元年には何歳だったか考えたんですが、たぶん幼稚園児です。(笑)
I001-1.jpg三谷
対談メンバーの幅が広くていいですね。みなさまありがとうございます。

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1989年~1995年 ~「SI」とは何だったのか~

SIとは「ユーザ企業の経営戦略に最適な情報技術を総合的に導入すること」と情報サービス産業白書1989年版にあります。当時、SIS(Strategic Information System)が流行って、単純な効率化だけでなく戦略を支援するものとして情報システムを使っていこうというムードがありました。その仕事を全面的に請け負うということでSIが出現したのだと考えられます。

I001-1.jpg三谷
SIとは何だったということについては、宗平さん、いかがですか?
I001-4.jpg宗平
情報子会社も外販を目指すにあたって、何かビジネスモデルを見つけなければいけなかった頃、「これからはシステムインテグレーターだ」というような事を皆が言い出していたことを思い出しました。開発、運用、機器導入全てを実施していたので、元請けでワンストップサービスを提供しようということで、システムインテグレーターという概念が出てきてのではないかと思います。
I001-1.jpg三谷
ハードもソフトもネットワークも、戦略企画もみんな込々ワンパックで提供することをSIと呼んでいたようにみえますね。鹿島さん、このあたりで思い出とかありますか?
I001-3.jpg鹿島
今オープンソース等の話があったのでその思い出を話すと、UnixがOSとして最初にソースコードを公開したとき、我々の会社は「とにかくUnixを見てシステムの作り方を覚えなさい」と教えたんですよ。
I001-1.jpg三谷
きれいなソースコードですものね。
I001-3.jpg鹿島
当時から非常によくできたシステムで、みんなで「エレガント」という言葉を使っていました。ただSIerはハードメーカーのように売ったら終わりではなく、要素を全部集めて、システムを作らなくちゃいけない。当社は独立系ですから、お客さんにとって一番いいハードを持ってきて、その上にOSとはまったく独立して動くようなシステムを作れるといいといいなと思っていました。しかし当時は、本当にインテグレーションの能力が要求されたはずなのに、結局人さえ持っていれば何とかなったような時代でした。私がニューヨークに行って帰ってくるまで20年間もあるんですけれど、ほとんど(人月)単価が変わっていないんですよね。「こんなんで、みんなよくやれたね」と言ったら「失われた10年、20年というのがあるのを知っています?」ということでした。だから、本当に「システムインテグレーション」ができるんだったら、これは価値があったと思います。
I001-1.jpg三谷
当時から、まだまだエンジニアの数が足りないという問題提起はされていました。解決策は人をたくさん集めて育成することと、もう一つはソフトウェアエンジニアリングでした。
I001-3.jpg鹿島
生産性を上げろという話ですね。生産性を測るときにお金で測ってしまう。しかも社員数で割る。多重下請構造ですから、社員一人で何人の外注を見られるのかという話になる。すると(下請構造の)一番トップに立つ会社の生産性が高くなるわけですが、それで実際にプログラミングを組んでいる技術者としての生産性を本当に測れるのかということですね。
I001-1.jpg三谷
業界の平均所定外労働時間を見ると、平成の最初と最後でほとんど何も変わりません。下手すると、だんだんブラックになってきたといえるくらいです。猿田さんはいかがですか?
I001-2.jpg猿田
私は環境に恵まれて比較的残業はあまりしないできたほうだと思うんです。ただ、エンジニアが働きにくい環境になってきていることが、昨今は生産性に響いてきているのではないかなと感じます。
I001-1.jpg三谷
例えば?
I001-2.jpg猿田
昨今はセキュリティ事故に過剰に厳しい。事故が一つでも起こると、テクノロジーで解決するという方向ではなくて、基本的には禁止するという方向です。
I001-4.jpg宗平
それだと確かに知的生産性は落ちますよね。
I001-1.jpg三谷
ノートパソコンが鎖でつながれていて、外に持ち出せないということが現実にありますものね!



I001-1.jpg三谷
この業界全体の研究開発投資があまりにも少ないということは昔からいわれていました。当時「ネオダマと言われた頃から研究開発すべきテーマはたくさんあったと思いますが、業界としてはあまり積極的に着手してこなかったように思えます。このあたりについていかがですか?

※「ネ」は「ネットワーク」、「オ」は「オープンシステム」、「ダ」は「ダウンサイジング」、
「マ」は「マルチベンダー」または「マルチメディア」のこと

I001-2.jpg猿田
AIだ、IoTだと旗を振っても、バズワード化してから取り組んだのでは、結局後れを取るだけです。バズワード化する前に目をつけて卵にしていかなければならないはずですが、それがやりづらい環境になっているかなと感じますね、現場の感覚ですけれど。
I001-3.jpg鹿島
当社の御大の岸田孝一という人がいて、会社の損益よりも、ともかくソフトウェアエンジニアリングの普及に努力した人です。Unixを導入したのも、ツールで一つずつ何かをやるのではなくて、環境を用意しなければいけないと考えていたからです。ソフトウェアの生産性、品質を上げるためには、開発環境を整えてプログラマに与えないといけないという話でしたが、ちっとも儲からなかったですね(笑)
I001-1.jpg三谷
いやいや
I001-3.jpg鹿島
でも今、あの当時言われているとおりになっているんですよ。ウォーターフォール型はやめて、アジャイルのScrumが出てきている。あの当時から生産性を上げるための知恵というのはあったと思うけど、なぜやらなかったのかなと。
I001-4.jpg宗平
私は上流、下流ともフレームワークをしっかりと追いかけていました。業界としてなぜソフトウェア工学的な取り組みができなかったかというと、多重下請構造がネックだった。元請がWBSを展開して、一次、二次、三次請けに投げて、レビューばかり、みたいな話です。ドキュメントレベルの指摘ばかりしたり、失敗してはいけないと思ったり、受け身のエンジニアがすごく増えてしまったような気がするんです。
I001-1.jpg三谷
納期が遅くなったりすると、怒られますもんね。
I001-4.jpg宗平
そうなんですよ。多重下請構造によって開発生産性というところが阻害要因になっていたんじゃないかなと、振り返って思います。
I001-3.jpg鹿島
アーサー・アンダーセンのMETHOD/1って覚えていますか? ソフトウェアを開発なのに、ドキュメントを書いている時間のほうが長いんですよね!

情報学広場:情報処理学会電子図書館

METHOD/1-体系的なシステム化の計画・方法論 -概説と特徴-



I001-1.jpg三谷
あれはインパクトが大きかったですね。

I001-2.jpg猿田
オープンソースの活用に関しても状況は似ています。昔はペインポイントを解決する道具としてオープンソースが用いられたと思うんですが、今は新しいビジネスを開拓していくような役割を担っていかなければいけないと思います。それが最近のオープンソースはできていない。もちろんSIer内部の事情もありつつ、顧客のマインドが変わっていないというところも原因にあるのかなと思いますね。
I001-1.jpg三谷
たぶん今の課題の原因も受託型ビジネスだからかもしれませんね。言われたものを作るんだから、企画力なんて望まないという話になります。
I001-4.jpg三谷
受託したので、大きなプロジェクトをしっかりと回さないといけないということで、結局PMをすごく偏重してしまったんですね。

次回、vol.2「1995年~2000年 ~アウトソーシングとは何だったのか/インターネットとは何だったのか~」に続く

#DX#SIer#オープンソース#対談

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